段階的曝露訓練における不安のモニタリング:主観的評価と客観的指標
段階的曝露訓練における不安モニタリングの意義
高所恐怖症に対する認知行動療法(CBT)の一環として行われる段階的曝露訓練は、恐怖や不安の感情に段階的に直面し、それに慣れる(慣れ:habituation)ことを目的としています。この訓練プロセスにおいて、不安を正確にモニタリングし評価することは、訓練の効果を最大化し、安全かつ効率的に進める上で極めて重要です。
不安のモニタリングは、自身の感情や身体反応、行動の変化を客観的に観察し記録するプロセスです。これにより、どの程度の刺激(高所に関連する状況)に対して、どの程度の不安が生じるのかを把握することができます。これは、不安階層リスト(Hierarchy of Fears)の作成や、各ステップの難易度設定、そして訓練の進捗を評価するための基礎となります。
本稿では、高所恐怖症の段階的曝露訓練における不安のモニタリング方法に焦点を当て、主に用いられる主観的評価尺度と、補完的な客観的指標について解説します。
不安の構成要素とモニタリング対象
心理学的に、不安は単一の感情というよりは、いくつかの構成要素を持つ複合的な反応として捉えられます。CBTにおいては、特に以下の3つの側面がモニタリングの対象となります。
- 主観的感情(Subjective Feeling): 恐怖や心配、落ち着かないといった内面的な感情体験です。
- 生理的反応(Physiological Response): 心拍数の増加、発汗、息苦しさ、手足の震え、胃の不快感といった身体的な反応です。
- 行動傾向(Behavioral Tendency): その場から逃げ出したい、避けたいといった回避行動や、安全確保行動(例:手すりを強く握る、下を見ない)といった傾向です。
段階的曝露訓練では、これらの要素が曝露刺激(高所に関連する状況)に対してどのように変化するかを観察し、記録します。
主観的評価方法:SUDSの活用
段階的曝露訓練において最も一般的に用いられる不安の主観的評価尺度に、SUDS(Subjective Units of Distress Scale)があります。SUDSは、不安の強度を0から100までの数値で自己評価する尺度です。
- 0: 全く不安を感じない
- 50: 中程度の不安
- 100: 想像しうる最高の不安(パニック状態に近い)
SUDSを用いることで、不安階層リストの各項目(例:1階の窓から外を見る、3階のベランダに出る、エレベーターで10階に上がる)に対して、訓練前の想定される不安レベルを数値化し、訓練中に実際に経験した不安レベルを記録することができます。
SUDS活用のポイント:
- 定期的測定: 曝露訓練中は、特定のタイミング(例:曝露前、曝露中(例:5分ごと)、曝露後)でSUDSを測定・記録することが推奨されます。これにより、不安のピークや、曝露時間経過に伴う不安の減少(慣れ)のパターンを捉えることができます。
- 客観的な評価: 感情の波に流されず、その瞬間の不安レベルを可能な限り客観的に評価する練習が必要です。最初は難しく感じるかもしれませんが、訓練を続けるうちに慣れてきます。
- 記録の重要性: 記録用紙やスマートフォンのアプリなどを用いて、日時、状況、SUDS値を詳細に記録します。この記録は、訓練の進捗を確認し、次のステップへ進むかどうかの判断材料となります。
例えば、ある状況でのSUDSが80であったものが、繰り返し曝露するうちに50、30と減少していけば、「慣れ」が生じていると判断でき、次のより困難なステップに進む目安となります。一般的に、特定の曝露状況での不安が十分に低下(例:SUDSが20以下など、事前に設定した基準値)したら、次のステップへ移行することを検討します。
客観的指標と行動的指標
主観的なSUDSに加えて、客観的な生理的指標や行動的指標も、不安のモニタリングに役立ちます。
- 生理的指標: 心拍数、皮膚コンダクタンス(発汗)、呼吸数などが含まれます。これらの指標は不安や覚醒レベルに応じて変化することが知られています。臨床場面では心拍計やその他の生体センサーを用いて測定されることがあります。セルフヘルプとして行う場合は、簡易的な心拍計アプリやウェアラブルデバイスを利用することも考えられますが、測定の精度や解釈には注意が必要です。これらの客観的指標は、主観的なSUDSと必ずしも完全に一致しない場合もありますが、不安反応の多面的な理解を助けます。
- 行動的指標: 回避行動(例:高い場所を避ける、下を見ない)や安全確保行動(例:手すりを強く掴む)の頻度や強さの変化を観察します。段階的曝露訓練が進み、不安が軽減されれば、これらの回避・安全確保行動が自然と減少していくことが期待されます。特定の行動がとれたか(例:窓に近づけたか、手すりなしで立てたか)といった目標設定と照らし合わせることも、進捗の客観的な評価に繋がります。
これらの客観的・行動的指標は、主観的なSUDSと合わせてモニタリングすることで、より包括的に不安反応と訓練の進捗を評価することが可能になります。
評価結果の活用と不安の波の理解
モニタリングによって得られた不安の評価結果は、単なる記録に留まらず、訓練プロセスを調整し、成功体験を積み重ねるために積極的に活用されます。
- 不安階層リストの再評価: 実際に曝露してみて、想定していたよりも不安が強かった、あるいは弱かった場合、不安階層リストの順序や各ステップの難易度を見直す必要が出てくるかもしれません。モニタリング結果は、より現実的で適切なリストを作成するための重要な情報となります。
- 進捗の確認と動機付け: 不安レベルが減少していることを数値や記録で確認することは、訓練の効果を実感し、継続する上での強い動機付けとなります。「前はSUDSが70だった状況で、今日は50になった」といった具体的な変化は、達成感と自己効力感(課題を達成できるという信念)を高めます。
- 「不安の波」の理解: 曝露訓練中、不安は直線的に減少するわけではありません。曝露開始直後に不安が上昇し、その後時間経過とともに自然と減少していくという「不安の波」を経験することがよくあります。また、次のステップに進んだ際には一時的に不安が再び高まることもあります。モニタリングによってこの「波」のパターンを理解することは、「不安はいつか必ず下がる」という予期(期待)を形成し、不安がピークに達した時にも回避せずに耐え抜く力を養います。
まとめ
高所恐怖症に対する段階的曝露訓練において、不安のモニタリングと評価は訓練効果の鍵を握る要素です。SUDSなどの主観的評価尺度、そして可能な範囲で客観的・行動的な指標を組み合わせることで、自身の不安反応を多角的に理解し、訓練の進捗を正確に把握することができます。
得られた評価結果は、不安階層リストの調整や訓練計画の見直しに役立てられ、また不安の減少を可視化することで、訓練を継続する上での重要な動機付けとなります。不安の「慣れ」のメカニズムを理解し、不安の波を乗り越える経験を積み重ねることは、高所恐怖症の克服に向けた「高さへの階段」を着実に上る力となるでしょう。
ただし、不安症状が強い場合や、セルフでの実践に限界を感じる場合は、必ず精神科医や臨床心理士といった専門家の助けを求めるようにしてください。専門家の指導のもと、より体系的で安全なモニタリングと曝露訓練を受けることが、回復への確実な道となります。