段階的曝露訓練における不安の波：ピーク後の慣れとその臨床的意義
はじめに
高所恐怖症に対する認知行動療法（CBT）において、段階的曝露訓練は中核的な技法の一つです。この訓練は、恐怖や不安を感じる対象や状況（この場合は高さ）に、安全な環境下で段階的に直面することを繰り返すことで、不安反応の低減を目指します。曝露訓練の実践において、被訓練者は不安の「波」を経験することがよくあります。不安が時間とともにどのように変化するかを理解し、特に不安のピークとその後の「慣れ」のプロセスを臨床的に理解することは、訓練の効果を最大化する上で極めて重要です。本稿では、段階的曝露訓練における不安の波のメカニズム、ピーク後の慣れがなぜ生じるのか、そしてそれが高所恐怖症の克服にどのように貢献するのかを、心理学的・臨床的な観点から解説します。
段階的曝露訓練における不安の波とは
段階的曝露訓練中に恐怖対象に直面すると、通常、不安は上昇します。この不安は、曝露が続くにつれてある時点でピークに達し、その後時間とともに徐々に下降していきます。この時間的な変化は、あたかも波のように見えることから「不安の波」と表現されることがあります。
この不安の波の背景には、学習理論、特に古典的条件づけにおける「消去（Extinction）」のプロセスが深く関わっています。高所恐怖症においては、高所という刺激（条件刺激, CS）が、過去の嫌悪的な経験や学習を通じて、恐怖や不安反応（条件反応, CR）と結びついています。曝露訓練では、この条件刺激（高所）を、回避や安全行動といった無条件刺激（UCS）の回避を伴わずに繰り返し提示します。これにより、CSとCRの結びつきが弱まり、最終的には消去されることを目指します。
初期の曝露では、CS（高所）に直面するとCR（不安）が強く活性化するため、不安は急速に上昇します。しかし、回避や安全行動を取らずにその場に留まり続けると、「高所にいても予測していたような破局的な出来事（例：落下して傷つく）は起こらない」という新たな学習（安全学習, Safety Learning）が生じ始めます。この安全学習の進行に伴い、CS（高所）はもはやCR（恐怖や不安）を強く引き起こさなくなり、不安反応は時間とともに減少していくと考えられます。
ピーク後の慣れ（Habituation）のメカニズムとその臨床的意義
不安の波において最も重要な治療的意義を持つのが、不安がピークに達した後に下降していくプロセス、すなわち「慣れ（Habituation）」です。慣れとは、反復される刺激に対して反応の強さが徐々に減少していく現象を指します。心理生理学的な研究によれば、高所に対する曝露を続けることで、恐怖反応に関わる生理的指標（心拍数、発汗など）も時間とともに低下していくことが示唆されています。これは、危険を知らせる信号として当初強く反応していたシステムが、繰り返し安全であることを経験することで、その信号への反応を調整していくプロセスであると解釈できます。
このピーク後の慣れを経験することの臨床的意義は複数あります。
- 無破局学習（Disconfirmation of Catastrophe）: 不安が最高潮に達しても、予想していた破滅的な結果（例：意識を失う、飛び降りてしまう、足がすくんで動けなくなる）が実際には起こらないことを、身体的かつ感情的に経験します。この学習は、「高所＝破滅」という自動思考や認知の歪みを修正する上で極めて強力な効果を持ちます。
- 安全行動・回避行動の不要性の学習: 高所での不安に直面しても、回避したり、手すりを強く掴む、下を見ないといった安全行動を取ったりしなくても、不安は自然に下降することを学びます。これにより、不安自体が危険なものではなく、時間とともに変化する一時的な感情であることを理解し、安全行動や回避行動に依存する必要がないことを学習します。
- 不安耐性の向上: 不安が高まっている状態に一定時間耐え続けることで、不安に対する耐性（不安があっても活動を続けられる能力）が向上します。これは、日常生活において高所に関連する状況だけでなく、他の不安を伴う状況に対処する上でも役立ちます。
曝露訓練における不安の波への実践的対応
段階的曝露訓練を効果的に行うためには、不安の波とその慣れを理解し、適切に対応することが求められます。
- 不安のモニタリング: 不安の主観的な程度を定期的にモニタリングすることが推奨されます。0から100までの尺度（主観的苦痛単位, SUDS: Subjective Units of Distress Scale）などを用いて、曝露開始時、最高潮時、そして時間経過に伴う変化を記録します。これにより、不安の波を視覚的に把握し、慣れが生じていることを確認できます。
- ピークを過ぎるまでの継続: 曝露訓練の核心は、不安がピークに達しても、そしてできればその後の不安が下降するまで、安全行動や回避行動を取らずに曝露を継続することです。不安のピークは最も苦痛を伴う時点ですが、そこを乗り越えることで慣れが生じ、最も重要な学習機会となります。曝露をピークの手前で中断してしまうと、不安が高まった状態で終了することになり、「高所＝危険」という認知を強化してしまう可能性があります。
- Extinction Burst（消去バースト）への対応: 消去の初期段階で、不安反応や関連行動（例：その場から逃げ出したい衝動）が一時的に増強されることがあります。これはExtinction Burstと呼ばれ、学習理論において予測される現象です。被訓練者や支援者がこの現象について事前に理解していることは、一時的な不安の増強に動揺せず、曝露を継続する上で助けとなります。バーストは通常一時的なものであり、それを乗り越えることで消去はさらに進行します。
- 曝露の中断に関する検討: 基本的には不安が下降するまで継続を目指しますが、あまりに強烈なパニック状態に陥り、安全確保が困難な場合や、セッションの維持が物理的に不可能になった場合は、安全を最優先に一時中断を検討することもあります。ただし、中断する際は、できれば不安がある程度落ち着いてから行うことが望ましく、中断の判断は専門家の指導下で行われるべきです。セルフヘルプで行う場合は、事前に明確な中断基準を設定しておくことが重要です。
他のCBT技法との連携
不安の波に対処するために、他のCBT技法を併用することも有効な場合があります。
- 認知再構成法: 不安が高まった際に生じる「落下する」「コントロールできなくなる」といった破局的な自動思考を特定し、より現実的でバランスの取れた考え方（例：「手すりがあるから安全だ」「この高さから落ちる可能性は極めて低い」「不安は感情であり、危険そのものではない」）に修正することは、不安の強度を和らげるのに役立ちます。ただし、安全行動として認知再構成法を用いる（例：不安を感じるたびに無理やりポジティブな考えを唱える）のではなく、不安の波を乗り越えるための補助として位置づけることが重要です。
- 呼吸法・筋弛緩法: 不安に伴う過呼吸や筋緊張といった生理的反応を和らげるために、これらのリラクセーション技法を用いることがあります。ただし、これらの技法も安全行動の一部として機能してしまう可能性があるため、不安そのものから逃れるためではなく、不安を抱えながら曝露を続けるためのツールとして慎重に使用する必要があります。重要なのは、リラクセーションによって不安を「消す」ことではなく、不安な状態であっても安全であることを経験することです。
まとめ
高所恐怖症に対する段階的曝露訓練において、不安の波とそのピーク後の慣れは、治療効果を発揮する上で中心的な役割を果たします。不安がピークに達した後、安全行動や回避行動を取らずにその場に留まり続けることで生じる「慣れ」は、「高所＝危険」という条件づけを消去し、「高所にいても安全である」という新たな学習をもたらします。この無破局学習や安全行動の不要性の学習、そして不安耐性の向上といった臨床的意義を理解することは、段階的曝露訓練の実践において極めて重要です。不安の波を適切にモニタリングし、特にピークを乗り越えて慣れが生じるまで曝露を継続する粘り強さが、高所恐怖症克服への重要な鍵となります。実践においては、必要に応じて認知再構成法などの他のCBT技法と連携することも有効ですが、それらが安全行動とならないよう注意が必要です。高所恐怖症の克服を目指す際には、これらの理論的背景を理解し、段階的に、そして粘り強く訓練に取り組むことが成功への道を拓くことでしょう。