高所恐怖症の段階的曝露訓練における不安の測定:SUDSの活用法と臨床的意義
はじめに:曝露訓練における不安測定の重要性
高所恐怖症に対する認知行動療法(CBT)の主要な技法である段階的曝露訓練は、恐怖を感じる対象や状況に意図的に、そして段階的に直面することで、「危険ではない」という新たな学習を促進することを目的としています。この訓練プロセスにおいて、対象者が経験する不安のレベルを正確に把握し、追跡することは、治療の効果を評価し、次のステップに進むべきかを判断する上で極めて重要となります。
不安の測定には、心拍数や発汗などの生理的指標、回避行動の観察、そして対象者の主観的な報告など、いくつかの方法があります。中でも、臨床実践や自己実践の場で広く用いられているのが、不安の主観的評価です。本記事では、この主観的評価の代表的なツールである「主観的苦痛単位尺度(Subjective Units of Distress Scale; SUDS)」に焦点を当て、その活用方法と、高所恐怖症の段階的曝露訓練における臨床的意義について詳細に解説します。
主観的苦痛単位尺度(SUDS)とは
SUDSは、個人がその瞬間に感じている苦痛や不安の程度を、0から100までの数値で評価する尺度です。考案者であるジョセフ・ウォルピ(Joseph Wolpe)によって広められたこの尺度は、特定の刺激(高所など)に直面した際に生じる主観的な感情反応を、比較的簡便かつ定量的に捉えることを可能にします。
- 尺度の設定: 一般的には、0を「全く不安を感じない、完全にリラックスしている状態」、100を「想像しうる最大の不安、パニック状態」として設定し、その間の数値を不安の程度に応じて評価します。例えば、50は「中程度の不安」、75は「強い不安」といった具体的な感覚と関連付けられることが多いです。
- なぜ主観的なのか: 不安は個人的な体験であり、同じ状況に置かれてもその感じ方は人によって異なります。また、生理的反応や行動観察だけでは捉えきれない内面的な苦痛を把握するためには、本人の主観的な報告が不可欠となります。SUDSは、この主観的な体験を数値化することで、客観的な議論や記録、比較を可能にします。
心理学における他の主観的評価と同様に、SUDSの数値は絶対的なものではなく、あくまで本人のその時点での感覚に基づいています。しかし、訓練を通して一貫して使用することで、自身の不安パターンや変化を理解するための強力なツールとなります。
SUDSの具体的な活用方法
高所恐怖症に対する段階的曝露訓練において、SUDSは様々な場面で活用されます。
1. 不安階層リストの作成
段階的曝露訓練の最初の重要なステップの一つに、恐怖や不安を引き起こす状況をリストアップし、不安の低いものから高いものへと順序付ける「不安階層リスト」の作成があります。この際、それぞれの状況がどの程度の不安を引き起こすと予測されるかをSUDSで評価します。
- 例:
- 高層ビルの写真を見る (SUDS 20)
- 自宅の2階の窓から下を見る (SUDS 40)
- デパートのエスカレーターに乗る (SUDS 60)
- 公園の展望台に上がる (SUDS 80)
- 高層ビルの屋上に行く (SUDS 100)
このように、予測SUDS値を参考にしながら、不安の低い状況から高い状況へと段階的に進むためのリストを作成します。この予測プロセス自体も、自身の恐怖について考える良い機会となります。
2. 曝露中のリアルタイムモニタリング
実際に曝露訓練を行っている最中に、数分おきなど定期的にその瞬間の不安レベルをSUDSで評価し、記録します。これがSUDSの最も基本的な活用方法です。
- 例: 高層ビルの写真を見ている間に、SUDSを10分間隔で評価・記録します。
- 開始時: SUDS 25
- 10分後: SUDS 30 (不安がやや上昇)
- 20分後: SUDS 20 (不安がやや低下)
- 30分後: SUDS 10 (不安がかなり低下)
このリアルタイムのモニタリングは、曝露の進行に伴う不安の変化、特に「慣れ」(Habituation)が生じているかを把握するために不可欠です。曝露を持続することで不安がピークに達し、その後徐々に低下していくパターンを観察することは、不安への耐性を高める上で重要な体験となります。
3. 曝露後の振り返りと記録
曝露セッションの終了後、体験した不安のピーク値、終了時の不安レベル、そして曝露中の不安の波(SUDSの変化パターン)を振り返り、記録します。この記録は、自身の進歩を視覚的に確認し、達成感を醸成するのに役立ちます。また、次の曝露セッションの計画を立てる上での重要な情報となります。
- 記録例:
- 日時: 2023年10月27日 14:00-14:40
- 曝露課題: 自宅2階ベランダから下を見る(10分間 x 4回)
- 予測SUDS: 40
- 曝露中のSUDS変化: 35 -> 45 (ピーク) -> 30 -> 15 (終了時)
- ピークSUDS: 45
- 終了時SUDS: 15
- 気づき: 最初は怖かったが、見続けるうちに少しずつ怖さが減っていった。手すりを強く握りしめる癖があることに気づいた(安全行動の発見)。
4. 安全行動や回避行動の識別
曝露中にSUDSの低下が見られない場合、それは対象者が無意識のうちに安全行動(例:手すりを強く握りしめる、下を見ないように遠くを見る)や微細な回避行動を行っている可能性を示唆します。SUDSのモニタリングは、これらの行動に気づき、それらを特定して意図的に手放す練習を促す手がかりとなります。安全行動を手放すことで、本当に「危険ではない」という学習が進むと理論付けられています。
SUDSの臨床的意義
SUDSは、高所恐怖症の段階的曝露訓練において、単なる数値以上の臨床的な意義を持ちます。
1. 治療効果の評価
定期的なSUDSの記録は、訓練が進むにつれて同じ状況に対する不安反応が低下していくことを示し、治療効果の客観的な指標となります。不安階層リストの各項目に対する予測SUDS値や、実際に曝露した際のピークSUDS値、終了時SUDS値の経時的な変化を追うことで、改善の度合いを把握できます。
2. 曝露ステップの進行判断
不安階層リストに沿って段階的に曝露を進める際、次のステップに進むタイミングを判断するためにSUDSが用いられます。一般的には、現在の曝露課題における不安が、例えばピーク時のSUDSが設定した閾値(例:70以下)に収まるようになり、かつ終了時のSUDSが訓練開始時よりも有意に低下し、ある程度「慣れ」が見られるようになったら、次のより不安度の高い課題に進むことが検討されます。この判断は、対象者の適応と挑戦のバランスを取り、訓練の効果を最大化するために重要です。
3. 対象者の気づきと理解の促進
自身の不安を数値化し記録することで、対象者は自身の感情や反応パターンについてより深く理解できるようになります。「不安は永遠に続くわけではなく、ピークを過ぎれば低下する」という体験(不安の波)をSUDSの数値で確認することは、不安に対する誤解や恐怖心を軽減し、不安への対処スキルを向上させる自信に繋がります。
4. コミュニケーションの円滑化
セラピストと対象者、あるいは自己実践における自分自身との間で、不安レベルについて共通の言語を持つことができます。漠然とした「怖い」「大丈夫」といった表現ではなく、「今SUDSは〇〇くらいです」と具体的に伝えることで、互いの理解が深まり、より的確なフィードバックやアドバイス、行動計画が可能となります。
SUDS活用の際の注意点
SUDSは非常に有用なツールですが、その使用にあたってはいくつかの注意点があります。
- 個人内での一貫性: SUDSはあくまで主観的な評価であり、異なる個人間で同じSUDS値が同じ強度の不安を示すとは限りません。重要なのは、その個人内での一貫した評価基準を持つことです。訓練の初期段階で、0, 25, 50, 75, 100といった特定のSUDS値が具体的にどのような感覚に対応するのかを明確にしておくことが推奨されます。
- 状況依存性: SUDSは特定の時点、特定の状況における不安を評価するものです。状況が変われば不安レベルも変化するのが自然です。
- 他の指標との組み合わせ: SUDSによる主観的な評価は重要ですが、それだけで全てを判断するべきではありません。可能であれば、行動観察(回避行動、安全行動の有無)や、リラックス度合い、認知的な評価(どのような考えが浮かんでいたか)といった他の情報と組み合わせて総合的に判断することが望ましいです。特に、SUDSが低いにも関わらず行動的な回避が見られる場合などは、自己評価が過小になっている可能性も考慮する必要があります。
- 評価自体が負担になる場合: ごく稀に、不安を評価すること自体が苦痛や負担となる場合があります。その場合は、評価の頻度を減らす、より簡略なスケール(例:10段階評価)を使用するなど、柔軟な対応が必要です。
結論:SUDSは曝露訓練の羅針盤
高所恐怖症に対する段階的曝露訓練において、SUDSは対象者が自身の不安を理解し、訓練の進捗を把握し、そして効果的なステップを判断するための羅針盤として機能します。不安階層リストの作成から、曝露中のリアルタイムモニタリング、曝露後の振り返りまで、SUDSの継続的かつ適切な活用は、訓練の効果を最大化し、高所に対する「慣れ」や非危険性の学習を促進するために不可欠です。
心理学を学ぶ学生や、自身の高所恐怖症克服を目指す知的探求心のある読者の皆様にとって、SUDSは認知行動療法の理論が実践にどのように結びつくかを示す具体的な例の一つと言えるでしょう。不安を「見える化」することで、恐怖という捉えどころのない感情に、構造的に、そして科学的に向き合う第一歩となるのです。