高所恐怖症における自己モニタリング:不安、思考、行動の記録とその段階的曝露訓練への活用
高所恐怖症に対する認知行動療法(CBT)において、段階的曝露訓練は中核的な技法の一つです。この訓練の効果を最大化し、自身の恐怖反応をより深く理解するためには、「自己モニタリング」という技法が非常に重要となります。本記事では、高所恐怖症における自己モニタリングの意義、具体的な実践方法、そして段階的曝露訓練への活用について、理論的背景を踏まえて解説します。
自己モニタリングとは:CBTにおける位置づけ
自己モニタリングとは、特定の行動、思考、感情、生理的反応などを、定められた期間にわたって意図的に観察し、記録する技法です。CBTにおいて自己モニタリングは、問題となっている行動や感情のパターンを客観的に把握し、そのメカニズムを理解するための重要なツールとして位置づけられています。自身の内的な状態や外部の出来事に対する反応を意識的に記録することで、無意識に行っていた自動的な反応や、問題を持続させている悪循環に気づくことが可能になります。
高所恐怖症の場合、自己モニタリングによって、特定の状況(例:高い場所に近づいた時)でどのような思考(例:「落ちてしまうのではないか」「バランスを崩すかもしれない」)、感情(例:不安、パニック)、生理的反応(例:動悸、息切れ、めまい)、そして行動(例:その場から逃げる、手すりを強く掴む、下を見ない)が生じているのかを詳細に記録することができます。
高所恐怖症における自己モニタリングの実践方法
高所恐怖症に関連する状況下での自己モニタリングは、主に以下のような要素を記録することが推奨されます。記録は、ノート、スマートフォンアプリ、特定のワークシートなど、継続しやすい方法を選択すると良いでしょう。
- 日時と状況: 恐怖を感じた具体的な日時と場所、どのような状況であったか(例:〇月〇日午後、マンションの3階ベランダに立った時、職場の窓から下を見た時)。
- 不安レベル(SUDS): 主観的な不安の強度を0から100までのスケール(Subjective Units of Distress Scale: SUDS)で評価します。0が全く不安を感じない状態、100が想像しうる最大の不安(パニック状態など)を示します。状況に遭遇する前、最中、後に記録することで、不安の変動を把握できます。
- 思考: その状況で頭に浮かんだ考えやイメージを記録します(例:「足がすくむ」「めまいがして倒れそう」「恥ずかしい」「誰かが見ている」)。これは自動思考と呼ばれる、瞬間的に浮かぶ非機能的な思考であることが多いです。
- 感情: その状況で感じた主な感情を記録します(例:不安、恐怖、恥、苛立ち)。
- 生理的反応: 体に現れた反応を記録します(例:動悸、冷や汗、手足の震え、めまい、吐き気、筋肉の硬直)。
- 行動: その状況で実際にとった行動を記録します(例:その場からすぐに離れた、手すりを強く握りしめた、座り込んだ、誰かに助けを求めた)。安全行動や回避行動に焦点を当てて記録することが特に重要です。
これらの要素を継続的に記録することで、自身の高所に対する恐怖反応がどのような文脈で生じ、どのような思考や行動と結びついているのかというパターンが見えてきます。
記録データの分析と段階的曝露訓練への活用
記録された自己モニタリングデータは、段階的曝露訓練を進める上で非常に価値のある情報源となります。
- 不安階層リストの作成: 記録された状況とSUDSのデータは、不安階層リスト(恐怖を感じる状況を不安の低いものから高いものへと順に並べたリスト)を作成する際の客観的な根拠となります。実際に自身がどの状況でどの程度の不安を感じているのかを把握できるため、より個別化された効果的な曝露ステップを設定することが可能になります。
- 認知の歪みの特定: 記録された思考の内容を分析することで、高所に関する非現実的、あるいは過大評価された危険性についての認知の歪み(例:「少しバランスを崩しただけで必ず落ちる」「手すりは全く安全ではない」)を特定できます。これは、曝露訓練と並行して行われる認知再構成法(非機能的な思考を機能的な思考に修正する技法)において、修正すべきターゲットを明確にするのに役立ちます。
- 安全行動・回避行動の認識: 記録された行動は、恐怖を一時的に軽減するものの、長期的に見ると恐怖の持続に寄与してしまう安全行動や回避行動を認識するために不可欠です。例えば、「高い場所で下を見ない」「手すりを異常に強く掴む」といった行動が記録されることで、それが恐怖反応を強めている可能性に気づき、曝露訓練中にこれらの行動を手放す練習へと繋がります。
- 曝露中の反応理解: 段階的曝露訓練の各ステップを実行する中で自己モニタリングを続けることで、曝露中の不安の「波」(最初は不安が高まるが、その場に留まることで徐々に低下していく現象)や、身体反応の変化、思考の変化を客観的に把握できます。これは、慣れ(Habituation)や消去学習(Extinction Learning)といった曝露訓練のメカニズムを体感的に理解し、訓練への信頼感を高めることに繋がります。
- 治療効果の評価: 一連の訓練を通じて自己モニタリングを継続することで、同じ状況に対するSUDSの低下や、回避行動・安全行動の減少、より機能的な思考の出現といった変化を客観的に確認できます。これは治療の進捗を評価する重要な指標となり、モチベーションの維持にも役立ちます。
例えば、ある学生が自宅アパートの3階ベランダで強い不安(SUDS 80)を感じ、すぐに部屋に戻るという行動を繰り返していたと記録したとします。記録を分析すると、「手すりが壊れているかもしれない」「少しでも寄りかかったら落ちる」といった思考が浮かんでいたことが分かりました。この記録は、不安階層リストの初期段階のステップとして「3階ベランダに立つ」を設定し、曝露中に「手すりは安全である」「落ちる可能性は極めて低い」といった機能的な思考を意識的に検証する認知課題を組み合わせる計画に活用できます。また、曝露中に手すりを強く掴む行動を徐々に減らしていく目標設定にも繋がります。曝露セッション後、同じ状況でのSUDSが50に低下し、部屋に戻らず数分間留まることができたと記録することで、治療効果を実感できます。
自己モニタリングを成功させるためのポイント
自己モニタリングは継続することが重要ですが、それ自体が負担になる場合もあります。以下の点を意識すると良いでしょう。
- 完璧を目指さない: 最初から全ての項目を詳細に記録しようとせず、まずは状況とSUDS、そして最も気になる思考や行動など、記録しやすい項目から始めてみましょう。
- パターンに注目する: 個々の記録だけでなく、全体を通してどのような状況で、どのようなパターン(思考、感情、行動の連鎖)が現れやすいのかを定期的に振り返ることが重要です。
- 記録ツールを工夫する: スマートフォンアプリやカスタマイズ可能なワークシートなど、自身にとって最も手軽で続けやすいツールを見つけましょう。
- 自己批判しない: 記録された内容に対して、自分自身を責めたり批判したりしないことが大切です。あくまで客観的なデータ収集として捉えましょう。
まとめ
高所恐怖症に対する段階的曝露訓練の効果的な実践には、自己モニタリングが欠かせません。不安を感じる状況、思考、感情、生理的反応、そして行動を記録・分析することで、自身の恐怖反応のパターンを深く理解し、不安階層リストの作成、認知の修正、安全行動・回避行動の特定、そして曝露中の反応理解に役立てることができます。自己モニタリングは、自身の治療プロセスに主体的に関わるための強力なツールであり、高所恐怖症の克服に向けた「高さへの階段」を一段ずつ着実に上るための基盤となります。継続は容易ではないかもしれませんが、自身の内側で起こっていることを客観的に把握しようとするこの取り組みが、恐怖からの解放へと繋がる重要な一歩となるのです。